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概要

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解説貴重書紹介「柴田介次郎上海談聞書」(小城鍋島文庫)文久2年(1862)、幕府は上海に帆船千歳丸を派遣した。これはイギリスの商船アーミスティス号を購入して遣使に充てたものであり、実際の操縦にあたった船員も、外国人が中心であった。この使節団は貿易開始を狙って上海に渡ったのだが、領事館の設置・正式な貿易開始は実現せずに終わる。しかし日本人が中国に渡航することを禁じられてから既に二百年がたっており、諸藩の関係者をも含むこの使節団の渡海は、日本人の「世界」との再接近という点で、大きな意味を持つものとなった。奇兵隊を生んだ長州藩の高杉晋作や、日本海軍の立役者となる佐賀藩の中牟田倉之助、政商として成功する薩摩藩の五代才助など、明治維新前後に活躍することになる人々が、列強の租界が展開し、太平天国が清朝支配を揺るがした当時の中国の状況を目の当たりにして帰ることになったからである。納富(柴田)介次郎(1844-1918)もまた、こうした渡海者の一人であった。小城藩の御用絵師であった柴田花守の次男として生まれた彼は、佐賀本藩の儒家であった納富家に養子入りしつつも、長崎で実父同様、絵師として身を立てるための修行に励んでいた。ところが長崎から千歳丸が渡海するにあたって、幕府使節で勘定吟味役の根立助七郎が出張先での絵図作成等を担当できる者を望んだため、中牟田倉之助を介して、介次郎の乗船が実現することになったのである。納富介次郎がこの際に記した「上海雑記」は、高杉や中牟田の手記同様、古くから知られていたが、約二か月の渡海を終えて帰国した後に小城藩関係者が介次郎に対して行った聞き取りの記録である本史料は、附属図書館における小城鍋島文庫の整理の過程ではじめて知られたもののようである。交易の実態や太平天国軍の展開する中国の現況、同行者のなかで見るべき人物は、といった問いが投げかけられており、これに対する介次郎の回答と合わせて、興味深い記録になっている。ちなみに最後の点については、五代才助の名が挙げられている。後に佐賀藩の中国貿易や、明治政府の万国博覧会出展に携わり、欧米の工芸技術の移入に努力することになるなど、世界に向き合った明治人たる介次郎にとっての最初の海外体験を示す史料であり、本学に伝わるかけがえのない文化遺産である。[参考文献]横山宏章「文久二年幕府派遣「千歳丸」随員の中国観」『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』3(2002)黄栄光「幕末期千歳丸・健順丸の上海派遣等に関する清国外交文書について」『東京大学史料編纂所研究紀要』13(2003)三ツ松誠編『花守と介次郎』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)(地域学歴史文化研究センター講師三ツ松誠)ひかり野佐賀大学附属図書館報№41 2017年10月ホームページアドレスhttp://www.lib.saga-u.ac.jp/編集発行佐賀大学附属図書館〒840-8502佐賀市本庄町1番地TEL(0952)28-8902 FAX(0952)28-8909印刷工程では有害廃液を出さない「水なし印刷」を採用。印刷株式会社三光