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貴重書紹介小城鍋島文庫「老中奉書」ひかり野佐賀大学附属図書館報№39 2015年8月解説本史料は、幕府老中酒井雅楽頭忠績より小城鍋島家当主鍋島欽八郎(直虎)へ出された「老中奉書」(幕府からの指示や、大名から将軍への献上品に対する返礼など)である。慶応元年(1865)5月15日付で、小城鍋島家の「公務」(幕府への務め)を「子年」(前年の元治元年(1864))より5年間「用捨」(免除)する旨が記されている。安政元年(1854)、佐賀藩は小城・蓮池・鹿島鍋島の「三家」(佐賀藩家臣団における筆頭格)の「公務」を「用捨」し、長崎警備に専念させるよう幕府に願い出、5年間許可された。安政6年(1859)に5年間延長、上記元治元年に再延長された。小城鍋島家など「三家」は、参勤交代や御手伝普請などさまざまな幕府の「公務」を務め、幕府(将軍家)に直接仕える大名同然の家であった。しかし実態としては、佐賀藩(鍋島家)から領地を拝領し、同藩家臣団に組み込まれていた。「三家」にとって幕府の「公務」は莫大な出費など辛い負担ではあったが、自らが「大名」である、将軍家に直接奉公する家である、というプライドを保つ拠り所でもあった。「公務用捨」は「三家」からすれば、佐賀藩によって将軍家とのつながりを制限され、かつ長崎警備という佐賀藩の「公務」を手伝う立場を「三家」に強要する。そのため「三家」のなかには、「公務用捨」に不満を持つ者もいたようである。元治元年に小城鍋島家では、重臣太田蔵人が富岡敬明(のち熊本県知事、貴族院議員)のグループに襲撃された。その取調書よれば、「公務用捨」をめぐり小城鍋島家中で議論がわき起こり、それを「尻押」した(煽動した)との疑義が富岡にかけられていた。上記襲撃事件との直接的なつながりは不明だが、被害者の太田蔵人は佐賀藩に近かったと思われる節があり、「公務用捨」をめぐって小城鍋島家中に親・佐賀藩派と反・佐賀藩派が存在していたのかもしれない。(地域学歴史文化研究センター伊藤昭弘)印刷工程では有害廃液を出さない「水なし印刷」を採用。ホームページアドレスhttp://www.lib.saga-u.ac.jp/編集発行佐賀大学附属図書館〒840-8502佐賀市本庄町1番地TEL(0952)28-8902 FAX(0952)28-8909印刷株式会社三光